論語の影響?
おはようございます。
sukiyaki-kです。
渋沢栄一の「論語と算盤」を読んでから、何となく論語を意識するようになりました。
「論語と算盤」を読んだ時には、ちょっと時代錯誤なところもあるのかな、なんて
思ってしまった自分がいて、素直な心で論語を読めていなかったような気がします。
論語の教えよりも、渋沢栄一がどう考えたのか、どう行動したのか
そっちの方に意識を集中して読み進めていたので、「論語」の良さがわかっていませんでした。ちょうど一年位前です。
この頃、忙しさのせいにはしたくないのですが、人の粗ばかりが目に付くことが多くて・・・そして、自分ばかりが大変だと思ってしまうようなこともあり・・・
実際に言葉に出して批判をするようなことはありませんが、心の中で毒づいておりました。そんな自分の思考を省みて
「自分は何様でしょうか?」
と反省しております。
論語の影響なのか、週末の気分転換の影響なのか、
ふっと、一昨日あたりから心の靄が晴れたみたいに
苦手な人の良いところが見えるようになってきたのです。
ほんと不思議(笑)
ほかに心当たりがあるとすれば、腰痛が軽減したせい?ホルモンバランス?
原因はわかりません。
苦手な人をA子さんと仮定しましょう。
A子さんは職場で
「仕事をさぼる人」
「ずるい人」
「人を不愉快にさせる人」
と共通認識されております。
このレッテルが綺麗に剥がれ落ちたわけではありませんが、
「この人にはこんな良い面があったんだ」
と気が付くことがありました。本当に些細なことです。
寄れたシーツのしわを伸ばしていた。
仕事をさぼらずに定時まできちんと働いた。
当たり前のことなのですが、A子さんが行うと、とっても驚きなのです。
もしかしたら、私の眼が曇っていて、A子さんを苦手と思うあまり、良い行動が見れていなかったのかもしれません。
子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり。
~日本語訳~
孔子は言った「人に自分が認められないことは気にしないが、自分が人を理解していないことが心配だ。」
~解釈~
承認欲求は誰にでもあるが、誰から認められなくてもそれを不平不満に思わないのが君子である。という章句が論語の冒頭に在ります。
自分を認めてほしいと嘆いているが、自分は相手を理解しているか?相手を認めているのか?
とてもとても耳の痛いお言葉です。
本を読み、知識が増えても実践できなければ意味はないので、努力します(笑)
ここまで読んでいただいてありがとうございました。